AI導入後の企業が直面する「次の壁」
株式会社イルグルムは、生成AIをこれから導入しようとしていた企業ではありません。社内ガイドラインを整え、全社員にアカウントを配布し、使い方やリスクに関する教育も行っていました。
しかし、本格導入から一定期間が経過しても、利用の深さにはばらつきがあり、経営成果へ十分につながっているとはいえませんでした。
そこで同社は、2025年12月に営業、人事、経営企画を担う執行役員・部門責任者クラス3人を「スタンフォード式生成AI Bootcamp」へ派遣。さらに約3カ月後、各部門の部長・リーダー層7人をBootcamp Miniへ送り出しました。
合計10人が共通の考え方を学んだことで、社内ではどのような変化が起きたのでしょうか。岩田進社長と、受講後に実践を続けている総務部長の徳島奈緒子さん、法務部長の伊藤真雄さん、クリエイティブデザイン部長の藤井秀全さんに聞きました。
AIを入れただけでは、経営上の生産性は下がる
江端:イルグルムでは、Bootcampに参加する前から生成AIを導入していました。なぜ、改めて責任者を研修へ送り出そうと考えたのでしょうか。
岩田社長:生成AIの時代に合わせて、会社の事業や組織を変えなければならないという危機感がありました。社内の生成AI活用ガイドライン、アカウント配布、使い方やリスクの教育など、基本的な環境はすでに整備していました。
ただ、それは基本中の基本です。そこからAIを使って既存事業を効率化する、あるいは新しい事業をつくるところまで進めなければなりません。
江端:岩田社長は「AIを導入すると、経営上の生産性がむしろ下がることがある」とおっしゃっていましたね。
岩田社長:AIを活用して生産性が上がりましたかと聞くと、みんな「上がった」と答えます。しかし経営的な生産性はPLで評価します。AIのアカウント費用は確実に増える。それなのに売上も利益も増えず、人件費も変わらなければ、経営上はコストアップです。
プロンプトを使ってメールの返信が少し速くなった、という程度では足りません。10ある業務工程を2にする、場合によっては人手をほとんど介さず回せるようにする。そこまで業務プロセスを変える必要があります。
AI専門家より、業務を知る責任者を育てる
江端:なぜ最初に営業、人事、経営企画の責任者3人を選んだのでしょうか。
岩田社長:業務プロセスを変えられるのは、その業務を日々見ていて、権限と責任を持つ人です。AIの専門家を連れてきても、業務の中身が分からなければプロセスは変えられません。業務を理解している人にAIを学んでもらう方が、圧倒的に早いと考えました。
江端:参加者には、どのような成果を求めましたか。
岩田社長:単に座学を聞き、こんなことができますと報告するのではなく、自分の業務をどう変えるのか、どの程度の生産性向上が期待できるのかを持ち帰るよう、参加前から明確に伝えました。
報告会でも、どの業務をどう変え、どの程度のリターンを上げるのか、いつまでに、どれくらいのコストで行うのかを具体的に報告させました。
江端:Bootcampのどこに最も価値を感じましたか。
岩田社長:自分の業務とまとまった時間をかけて向き合い、レビューを受け、ブラッシュアップして持ち帰るところです。一方的に知識を教わるだけではありません。そこが一番期待していた部分であり、実際に良かったと思います。
3人から10人へ。共通言語を持つリーダーを増やす
江端:最初の3人の後、約3カ月後にさらに7人を参加していただきました。
岩田社長:最初のプログラムで、業務を具体的に変える計画まで持ち帰れたことに価値を感じました。次は、より実務に近い責任者にも参加させたいと考えました。
江端:経営に近い責任者と、その下で実務を動かす部長・リーダー層が、共通してAIを理解したことには大きな意味があります。実際、部署内や部署間でどのような変化がありましたか。
徳島さん:私は総務なので、契約書、社内規程、議事録など、文章を扱う仕事が多くあります。契約書の差分確認、システム移行時の文書確認、取締役会議事録を所定の作法に合わせて整えることなどに、Bootcampで学んだカスタムAIの考え方を使っています。
作ったものは自分だけで使わず、本部内で共有しています。また、自部署のメンバーにも「最低でも月に1つはカスタムAIやGASを作ってみよう」と案内しています。私や藤井が自分でGASを作っているのを見ると、メンバーも「自分たちにもできる」と感じ、自動化を自分で行うようになりました。
江端:管理職が率先して使うことで、周囲へ波及しているのですね。
徳島さん:隣の人がうまくいっているのを見ると、「自分もまねしてみよう」という空気が生まれます。今までとは仕事の仕方が変わってきたと思います。
外注費をゼロにして、記事制作は5倍以上へ
江端:藤井さんは、かなり具体的な成果が出ていますね。
藤井さん:コンテンツ制作において、以前は月2本ほど外注していましたが、いまは外注費をゼロにしつつ、月10本以上を質を落とさずに作れるようになりました。
ただAIに書かせるのではなく、事前に自社の一次情報や目指す着地点をプロンプトに読み込ませる仕組みを構築し、構成案から執筆ベースの作成、挿絵、HTML化までを高度に自動化しています。
私たち人間が注力しているのは、上がってきたものが「本当に自社独自の価値ある記事になっているか」という品質チェックと、世に出す前に「魂を入れる」最終調整の部分です。
江端:年間では、どこまで目指していますか。
藤井さん:年間200本の制作です。いま、これからのAI検索(AIOやLLMO)時代に向けて、単なる量産ではなく「独自性があり、正しく引用されるユーザーの役に立つコンテンツ」を作ることが本質だと考えています。
私たちが一次情報を組み込む自動化システムと、人間の厳しいチェックを掛け合わせて作った記事が、結果としてインデックスもされ検索上位を獲得していることは、そのアプローチが間違っていないという一つの指標(答え合わせ)になると捉えています。
ただし、一つの作業が8時間から1時間になっただけでは、本当の経営効果は分かりません。その業務が毎日あるのか、月1回なのか。短縮率と継続性を掛け合わせて、効果を数字で語れるようにしたいと思います。
過去資料を「探す」仕事から、組織の学習システムへ
江端:他部署の課題にも取り組まれたそうですね。
藤井さん:カスタマーサクセス部門では、顧客向けの勉強会や提案に使える過去資料を探すのに時間がかかっていました。Google Driveの検索窓では目的の資料が見つかりにくく、個人のブックマークに頼ると属人化します。
そこで、フォルダ内のPowerPointやPDFなどをGAS※で読み取り、AIが内容を要約し、検索できるシステムを作りました。もちろん、入力データが保護されるセキュアなAI環境下で構築しており、会社のガイドラインに沿って情報が外部に出ない設計にしています。使った人が役立った資料に「いいね」を付けると評価の高い資料が上位に表示され、使えば使うほど組織内にナレッジが共有される仕組みです。
江端:もともとGASの経験があったのですか。
藤井さん:まったくありませんでした。私がやったのは、実際に担当部署へヒアリングを行って業務を深く理解し、「どのようなデータ構造で、どう検索させたいか」という業務要件を定義したことです。岩田が「業務の中身が分からなければプロセスは変えられない」と言っていた通りですね。
要件さえ決まれば、あとはAIに作りたいものを伝えてコードを書いてもらい、対話しながら改善する「バイブコーディング」で完成させられます。この非エンジニアでも自作できるという体験自体を、社内勉強会でも共有しています。
※GAS=Google Apps Script
AIには、光だけでなく影もある
江端:法務では、一般的な生成AIだけでは難しい部分もあったそうですね。
伊藤さん:法的な解釈を一般的な生成AIに聞くと、真逆のことを言う場合もあります。ハルシネーションの裏取りに時間がかかり、結果として時間短縮にならないことがありました。
その後、法務に特化したサービスを導入しました。弁護士への確認がゼロになるわけではありませんが、正解に近いところまで論点を整理してから確認できるため、時間や費用を削減できる手応えがあります。
藤井さん:AIで効率化しても、その時間で今までできなかった仕事をしてしまい、総労働時間が減らない問題もあります。作ったツールを、そもそも使ってもらえないこともあります。AI以外の、人間側の問題も認めたうえで、次のフェーズを考える必要があります。
AIの最先端は、AI研究所ではなく「現場の業務」にある
江端:イルグルムは「AI企業宣言」を掲げ、事業そのもののAI化も進めています。岩田社長は、AIの最先端をどう捉えていますか。
岩田社長:AIそのものは、いずれコモディティになります。最先端は、むしろ現場の業務の中にあると考えています。現場で人が手を動かし、汗をかいている仕事を、いかにAIで動く状態へ変えるか。そこが最先端です。
シルバーエッグ・テクノロジーのAIエンジン技術に加え、アタラが持つ広告運用やマーケティングのインハウス化ノウハウを組み合わせることで、最先端の業務ノウハウをAIで新しい形にしていきます。
岩田社長自身のAI活用は、Bootcampの成果ではない
江端:岩田社長ご自身は、来期の事業方針や予算を考える際、複数のAIやディープリサーチを使い、何度も壁打ちしながら戦略を磨いています。ただし、これはBootcamp受講による成果ではありませんね。
岩田社長:私はBootcampを受講していません。自分の仕事で実現したい成果があり、それをAIと相談しながら作り込んでいます。あるAIの答えを別のAIに問い、調査も加え、矛盾がないかを確認しながら何度もブラッシュアップします。
江端:岩田社長の高度なAI活用をBootcampの成果として紹介することはできません。むしろ、トップがすでにAIの可能性と限界を理解していたからこそ、自分一人が使うだけでは会社は変わらないと考え、業務責任者3人、さらに実務リーダー7人を送り出した。その判断に大きな意味があると思います。
「導入前」のドールと、「導入後」のイルグルム
江端:以前取材したドール社は、本格導入前に主要メンバーがBootcampへ参加し、その後の全社導入と社内ハッカソンを通じて、4カ月で50以上のアプリが生まれました。
ドール社は「導入と同時に活用を加速した事例」です。一方、イルグルムは、すでに導入していたAIを業務価値へつなぎ直した「導入後の活性化・高度化の事例」といえます。
岩田社長:AIを入れただけでは、会社は変わりません。まずトップ自身がリテラシーを高め、そのうえで、現場の業務を理解し、権限と責任を持つ人を上から順に育てることが重要です。全社員のリテラシー向上とは、分けて考えた方がよいと思います。
江端:AI導入費を単なる固定費で終わらせず、業務、組織、事業を変える投資へ転換する。イルグルムの挑戦はまだ続いていますが、導入後に伸び悩む多くの企業にとって、現実的な道筋を示す事例だと思います。
※Jeremy Utley(ジェレミー・アトリー)氏
スタンフォード大学d.schoolで長年イノベーション教育に携わるAI・イノベーション専門家。著書に『Ideaflow』『The Human Advantage』など。
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