今回でAdvertimesの連載が紙媒体の時も含めて200回目を迎えました。正直自分ではこんなに長く続くとも思っておりませんでしたし、始めるまではこんなに“いいね!”してもらえるとは思いませんでした。
最近も「毎回楽しみに読んでます」とか「取り上げていただいてありがとうございます」という言葉をいただいたり、記事をリツイートや“いいね!“してもらえるとそれが原動力となり、この分野の先端情報を届ける使命に勝手に燃えている自分がいます。まずは支えになっていただいた読者の皆様、情報をいただいたり取材に協力いただいた皆様、宣伝会議の皆様・特にいつも催促いただき的確な修正を加えていただける上条様そして、家族や友人の皆様に厚く感謝したいと思います。本当にありがとうございます。皆様のお役に立つ限り続けていきたいと思っております。今後ともよろしくお願いします。
もともと、書くのは苦手でした
私は幼少のころ日本と米国の間を頻繁に行き来しており(0~2歳・ニューヨーク、~6歳・東京、~9歳・シカゴ、~12歳・東京、~15歳・ニューヨーク、15歳~ 東京)、海外では現地校で土曜日だけ日本語の補習校に通っていたため、日本語の読み書きが弱く、特に字が汚かったために作文や小論文は大の苦手意識があった。
小学生の時に提出した作文は“箇条書き“だったので、成人してから会った恩師に「この子はちゃんと社会に出られるのか心配」と言われたほどであった。入試に関しても極力小論文などのないところを狙っていた。本来“文章を書く”ということに関して自分は一生かかわらないだろうと思っていたのである。
転機は“騙されて”ブログを始めたこと
そんな中、日本コカ・コーラで働いていた2008年ごろ、Web系のPR会社の社長と有名なアルファブロガーとランチをする機会があった。当時はまだ、ブログはそこまで一般的ではなかったが、社会に影響力を持つことは感じていた。「どうしてブログを書くのか? なぜ影響力があるのか?」という議論をしていた時に「自分でやらないとわかりませんよ」と言われたのである。
確かに自分は新しいガジェットやゲーム、ソーシャルなどには早くに食いついていたのだが、ブログは書くことに対する苦手意識もあり始めていなかった。社長とブロガーに「騙されたと思って6カ月間毎日続けてみてください」と言われ、その場で約束をしてしまったのである。考えてみればブログは手書きではないので、字が汚いことはばれないし、たいして見られないだろうから何でも書いていいやといった感覚で始めたのである。
実際に始めると毎日は結構大変で、昼食を単にアップするような日が続くことがあったが、それでも半年は意地もあり、毎日続けてみた。そのうち、自分の考えをまとめることの重要性、投稿する内容により様々な反応があること、場合によってはものすごいアクセスがあることを学んだ。また、時には荒れることもあったがこれも後にリスクマネジメントで役に立っている。“騙されたと思って”始めてよかったと今でもその社長とブロガーに感謝している。
寄稿や連載の依頼が舞い込む中で“来る者拒まず”
もともと講演などの依頼は多く、こちらは逆に得意分野であったので積極的に取り組んでいたのだが、そのような模様(かつては講演に上がるとブログにその場で投稿を必ずしていた)をブログに上げていると今度は寄稿や執筆の依頼が来るようになった。自分は楽観主義的で基本的に運がいいと思っているところがあるので、あまり、仕事の依頼は昔から断らないタイプであるのでどんどん受けていった。
今考えると、それに振り回されていた元日本コカ・コーラ広報のS氏は大変だったと思うが、ブログでつけた自信をベースに色々なチャレンジをしていった結果、日経デジタルマーケティングのコラムや書籍の出版の話まで舞い込んでくるようになったのである。字が汚く、箇条書きの作文しか書けなかった自分であるが、自然とコンプレックスを克服し今では「得意分野」としているつもりである。
文章を書くときは頭の中で構成を箇条書きにし、肉付けしてゆくという手法を自然と取っているのだと感じている。箇条書きは論理的思考の表れであると自分ではいいように解釈している。(写真は『コカ・コーラパークが挑戦する エコシステムマーケティング』江端浩人・本荘修二著、ファーストプレス社、2009年11月発行)
思い出に残る記事は「“おせち事件”はなぜ起こったのか」
こうして連載を続けていく中で、ついに私のジャーナリスト魂を覚醒させてくれた事件が2011年の元旦に起こった。いわゆる“おせち事件”だった。正月に届いたおせちが消費者の期待と全く違う見栄えであり、実際には内容物も違ったという事件だ。
このとき筆者は遅めの正月休みでハワイに滞在していた。ニュースを知って、「ついに懸念していたことが起こったしまった」というのが率直な感想だった。というのも、この時期に筆者は結構多くの関連記事を書いており、業界をウォッチしていたのであるが、若干バブルの感もあり、金の力に誘われて色々な人が参入し、危ない匂いがしていたのである。
また、マスコミの報道も非難一方で原因に関する解説も少なく、ややもするとインターネットビジネスやマーケティングが否定されてしまうという恐れがあったと記憶している。そこで予定していたレジャーをキャンセルし、初めて泊まった憧れのハレクラニホテルのプールサイドにパソコンを持ちこみ、まだ正月休みであった編集部に掛け合って前倒して掲載いただいた記事であった(「前払いクーポン割引サービス」で“おせち事件”はなぜ起こったのか)。家族には事情を説明し、記事の“リツイート”や“いいね!”を見せて納得してもらった記憶がある。独自の観点をタイムリーに世の中に提供できた事例として大きなやりがいを感じた一件であった。
大学教授の話も舞い込み、会社と掛け合って受諾へ
そんな中、また思いもしないオファーをいただいた。宣伝会議の東会長より事業構想大学院大学の教授として声がかかったのである。大学時代はろくに授業にも出ず部活(体育会アメフト)とマージャンに明け暮れていた自分がまさか「先生」と呼ばれる立場になる機会が来るとは思ってもいなかった。しかしスタンフォードのビジネススクールでは予習・復習も含め真面目にほぼ全ての授業に出ており、特に実務家の教授が話す内容は理論を越えた部分が大きく、自分がそのような立場になれることを意気に感じてお受けすることにした。
本件は会社や週末を犠牲にする家族の協力もあり実現している。学ぶものも非常に多く、時には週末がまるまるつぶれることもあるが、持ち前の楽観主義で楽しく取り組ませてもらっている。授業で話す内容は本コラムを書く上で調査をしたり、考えたりしたことが役立っている。
“好きでない”を“得意”に、正のスパイラルを作る
私の現在の家庭外の人生は会社、大学院、その他活動(講演・研究会・委員会など)で構成されているが、それらはお互いに補完して強化し合っている。常に最新の業界情報を届けるために筆者は常に情報収集を続けているのだが、それが新しいマーケティング手法の実践につながったり、それを講演会や授業で披露したり、また、本記事がきっかけで設立した「次世代マーケティングプラットフォーム研究会」は既に450人の会員を有す団体となっており、他の活動ではできない自己実現と社会実験を行っている。
もともと執筆や教職とは無縁であると自分は思っていたのであるが、それはやってみると“好き”よりも“得意”が先に来ることであることが分かった。「趣味は?」と聞かれると「カラオケ」と「ゴルフ」と答えるのだが、本当は「新しいことを考えること」かもしれないと思っている。性格はマグロ、つまり泳いでいないと死んでしまうようなところがあり、新しい可能性との出会いが一番のリフレッシュになっているのである。
自分が“得意”なことは“好き”なことに比べて世の中への貢献が大きく、また仕事にしやすいと感じている。今となって考えてみればビジネススクール時代に習ったマーケティングはあまり好きではなかった。というのもケーススタディなどは仕方がないのだが、米国の事例が中心で理論はともかく実践としては日本で適用できないケースが多いと感じていたからである。
しかし、それもよく考えてみると逆にいえば日本でワークする方法が自然とわかっていたので、実践するとうまくいったのではないか。やはりいろいろ試して自分が“得意”なものを推進すると結果的にうまくいったり人にほめられたり、取り上げられるので好きになるのであろう。まさに“得意こそものの上手なれ、好きは後からついてくる”と思うのである。
この考えはデジタルマーケティングのA/Bテストに似ていると思っている。皆さんも意外な分野に自分の得意が隠れているかもしれないので、色々試してみてはいかがだろうか? 私もこのコラムを通じてそんな発見のお手伝いができればと思い、201回目からも頑張ろうと考えている。
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